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小学生並みの日記

肩肘張らずに語ろう

先生はえらい

 

先生はえらい (ちくまプリマー新書)

先生はえらい (ちくまプリマー新書)

 

授業の分かりづらい教師がえらいわけねぇだろオエ!って感じで読み始めたら、そういう話じゃなかった。

 

結論は、先生はえらいと妄想して、先生は何を伝えたいのか?と謎に思うところから学びがはじまるということ。

これが能楽張良」の話を出して分かりやすく説明されている。

 

謎から学び取り出すことのできる知見は学ぶ人間の数だけ存在する。私たちは学びに対して無限に開かれている。こういった言葉に開放感と、学びの根源的な楽しさを感じた。

 

 

この結論にいたるまでにいろんな話があるんだけれども、全体として見通しがよくなるように書いてあるし、個別の話としても面白い。

 

沈黙交易

沈黙交易とは言語も文化も違う人間の間で「特産品」をやり取りするというもの。当時の人たちは、集団外の者にとっては使用価値が分からないものを交換し合ったからこそ、ワクワクして交換を続けた。逆に、使用価値の分かるものを交換しても、そこには何の楽しみもなく、次第に取引する意欲が減退するものなのだという。

現代でも、なぜロレックスの時計は売れるのかという話をだして、ロレックスの時計は300万もするのか分からない、商品価値が分からないからこそ売れるという論を展開している。面白い。

 

コミュニケーションが楽しいのは、そこで取り替えられつつあるものの意味や価値がよくわからない時

次に、話がコミュニケーションに進む。コミュニケーションについても、分かりきった(と思っている)話は聞いていて面白くないが、分からないときの話は聞いていて面白いのだという。しかし、分かってしまうとそれ以上コミュニケーションを続ける意欲が失われてしまう。だから、理解を望みながら理解に達することができないという宙吊り状態をできるだけ延長することを私達は望んでいる。

 

コミュニケーションは誤解の余地を残して構造化されている

 理解の宙吊り状態の延長のために、コミュニケーションは誤解の余地を残して構造化されている。コミュニケーションを先へ勧めることができるのは、そこに誤解の幅が残されているからだという。誤解の余地があるからこそ、私達はコミュニケーションの実感を味わうことができる。

十代の若者の会話の語彙は貧困である。なんでも「わかるー」「かわいい」といった言葉しか登場しない。しかし、内田センセーに言わせればこれは、わざと誤解の幅があるようにコミュニケーションしている結果なのだという。

 

 

あなたは何を言いたいのですか?

「監督はこの映画で何を言いたかったのですか?」映画監督のデヴィッド・リンチはこのようにインタビューされてびっくりして絶句したという話が出ている。芸術家は何か言いたいことがあらかじめあって、それを映画などで「表現」しているわけではない。「気がついたら、こんなものができちゃった」というのが本音なのではないかと、内田センセーは話す。

 

映画もコミュニケーションも誤解が生じるのが当たり前で、誤解があるからこそ面白いのである。

 

今まで自分は、「この映画の作者は何を意図しているんだろう?」とか、「自分はこう感じたけどこれで合ってるんだろうか」と考えることが多かった。しかし、これからは「誤解の自由があることは当たり前なんだから、もう積極的に誤解していこう」と考えていこうと思う。

 

寝ながら学べる構造主義 *1

 

内田樹センセーはこっちの本もおすすめ。

読んだのだいぶ前なんであんまり覚えてないけれど、面白かったって記憶は残ってる。

 

 

 

高校生向けの本はオススメ

ところで、このちくまプリマー新書という本は年齢的に高校生あたりを対象にしていて、読みやすくて面白いものが多い。

それ以外にも、高校生向けってタイトルが入ってる本ははずれが少ない気がする。

ただ単に分かりやすく書いているというだけでなく、著者が目線の高さを読者のところまで下ろして書いてくれて、優しさみたいなのが感じられる。そこが良い本と感じさせる魅力だと思う。

池上彰の講義の時間 高校生からわかる「資本論」

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*1:文春新書